昭和45年6月11日 朝の御理解
御理解第37節「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」
修行とこういう風に申しますと、大変苦しいこと。難儀な事というような考え方をしとる人が多いですけれども、決して私はそうじゃないと思うね。(それは?)初めは苦しいかもしれません。けれども、「学者が眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい」と仰るように。
ね、例えば、学識、学徳が身に付いて行く。いわゆる学問でいう新しい世界の展開というものがある。だからこそ、本をいわば読み続けるのであって、ただ、同じ事を続けておる、苦しい事を続けておるというのではない。
ね、いうならば、眼鏡をかけてというのは、もう年をとってもという事でしょうが、んー、読まなければおられんのであり、いやまたそれが楽しゅうてたまらんのであり、そういう私は内容が修行の内容だとこう思うのです。
ね、もうどうせ、人間は生きておる間は、いわゆるこの世は苦の世だから、苦の世界だから、そういう苦しい事は、まぁ修行と思うて、ね、この世では仕方がないという事であったら、もう金光様のご信心の修行、いわゆる修行観とでも申しましょうかね。
ですから、お道で言う、私はこの修行というのは、どこまでも信心修行のことである。学者が本を読むことが修行であるように、ね、ならその修行というのは、苦しい事かというと、いうなら苦しいことではない。楽しいことなの。そうしなければおられんのだ。
年をとったら、もういっちょ本は読まんでよかごとならにゃならん、というのじゃないと思うですね、学者の本を読むのは。もう年をとったから、えー、子供に孫にゆずって、もう本は読むまいというのじゃないと思います。
そういうならば、研究し続けなければおられないのである。本を読むという事はそういう意味ですね。本を読んで、新たな学識、新たな学徳、新たな、いわば発見がそこにあるからこそ、読まなければおられんのである。それを修行と仰ったんです。ここではですね。学者が本を読むようなものであろうぞい。
ですから、信心もやはり、信心修行というのは、そういうような内容を持った修行でなからなければならん。
なるほど私共が、こうして日々信心のお稽古をさせて頂いて、様々な問題、様々な難儀に、まぁいわば直面いたします。ね。ですから、そこんところを、まぁ修行不足と思うて、神様が修行させて下さるんだと。修行と思うてという事をよく申しますけれども、んー、だからそういうような、例えば問題とか、難儀といった意味で、これはまぁ難儀という、全ての難儀ですね。その様々な例えば、世の中には難儀の様相というものが、満ち溢れております。様々な難儀がいっぱい。だから、そういう難儀を、を修行と思うてというのではないようですね。
本当にそうであったら、この世は苦の世、苦の世界になってしまいます。ね、2、3日前の御理解の中に、あの解脱という言葉を使って御理解頂きましたですね。解脱をする。ね、いわゆる難儀から脱皮をする。難儀から、いわば抜け出ることが出来るという、それが信心。
なら難儀から、もう抜け出たから、いわば信心修行は、せんでも良いのかというと、もうその頃にはね、せねばおられんのであり、それが学者が本を読むようなものであろうぞい、と仰るようにです、ね、信心の修行は、もう極まりがなく、楽しい、いわばだけではない、有り難いものになってくる。
ところが、実際は、私共には、様々な人間関係のことがまだ難儀に感じられたり、ね、体の、例えば病気なら病気をしておる、その病気が、あー、ために苦しんだり。又は、人間関係で、えー、難儀をしたり致します。実際は、実際問題としてはそうなんです。
だから、そこんところをね、私は脱皮するという事。いわゆる、そこんところをおかげを頂いていくという事。どのようなわずらわしい、例えば人間関係の中にありましてもです、ん、それをいうなら、和の心、賀の心ね。和賀心をもって受ける時に、それは、あー、一つも難儀という事になってこない。
相手を祈るとか、ね、えー、そういう事にはなってまいりましても、自分自身の心には、あー、それは腹立ちでもなからなければ、悲しみでもない。もうそこには、いうなら、苦しい事という事ではない。
ならまぁ金銭関係の場合でもそうです。金銭関係の、例えば難儀というものが、ある。ね、それこそ、貧よりも辛いものはないといわれるぐらいに、やはりお金に不自由するという事は、大変難儀なことである。
だから、それが、例えばなら、もし一生続くとすると、これはちょっと可笑しい事になる。ね、本当の信心修行という事は、それで、それが信心修行だという事だったら、本当のことではない。
初めの間は、そういうような事がご信心を頂く、まぁ動機であることは良いでしょう。ね、そして段々おかげを頂いて、いうならお金には不自由するような事はない。お金で修行させられるような事はない。お金で苦しむようなことはない、というところまで、私はおかげを頂いていかなければいけんと思う。
全ての難儀がそのように、おかげを頂いていかなければならん。してみると、もうお金にも不自由しない、人間関係も円満にいっている。ね、体も健康であるという事になったらですよ、その難儀というものがなくなってくるわけですね。
それだから、もう修行せんでよいかというのでなくてです、そういうおかげを頂かせて頂く一つの過程というものがです、ね、本当の信心修行を教えてくれる。ね、それを、まぁ「難あって喜べ」と、「難はみかげ」という事になるわけです。どういうみかげかというと、そういう難儀から、脱皮する事が出来ておる。
そういうおかげを頂かせて、私はもろうていかなきゃいけんと。ね。一つひとつ卒業して行く。そしてその難儀、その、例えば難儀と思うておった事柄がです、本当の信心修行を教えてくれる。だから難はみかげというのである。難あって喜ばせて頂けれるのだ。その事を通して、分からせてもらう。それは勿論、信心。なら信心という事はどういう事かというと修行なの。
だから、本当の意味においての修行。それは学者が年をとっても本を読むようなものであろうぞい、と仰せられるところの、ような内容を持った修行。ね、もういうならば、学者が学徳が身に付いて行く。学識が、広まって行くという事が、楽しいことのように、信心させて頂く者は、ね、いうなら神徳が身に付いて行くと楽しみ。ね、信心の内容がいよいよ深められ、又は高められて行くところの喜び。ね、それが、私は信心修行。
例えて、私共が、あー、ここにこうやって御結界奉仕をさせて頂きます。それこそ、三代金光様が、初めの間は辛うて辛うてよう泣いた、とこう仰せられる。ね、わずか御年13歳ぐらいで、お父様の後をお受けになられたのですから、初めの間は、朝の四時から、夕方のおひけの四時まで、ね、ぶっ通しにお座りになるということは、小さい、いわゆるまだ遊びたいざかりのお子さんとしては、もう大変な難儀なことであっただろうとこう。ん。
お広前の向こうの広場から、友達が遊びを、おその、まぁ誘惑するわけです、せっちゃん遊ぼうというてからやってくる。すと御結界をね、ほっちしてやっぱ立ちあがりよんなさったげなもん。そすと、そこに偉い先生方がついておって、あー、金光様ーちうてから、それを制するもんですから、それこそ、泣く泣く、また座っておられたという事である。ね。
だから、そのそういう一つの厳しい、激しい、私は信心修行が積まれる。座っておるという事が、あー、どのように辛いことか苦しいことかという事を、いっぺん通られた。そして、辛抱させて頂いておられたら、身に徳が、信心辛抱の徳が身に付いておみえになられた。ね、いわゆる、有り難うて有り難うてと、ね、第一思う事もなくなり、欲しいものもなくなり、有り難うて、有り難うてという境地が開けて見えられた。
もう金光様、ご晩年の頃、本部教庁の、では、金光様にぜひ下がって頂いてお食事を召し上がって、かるいお食事を召し上がって頂くように、なさいました。それで、親の方には、今の四代金光様、又あのご兄弟が、交代で御結界をお勤めになられました。
金光様はお控えの間に控えておられる。私はそれを聞いた時に、はー金光様お苦労しちゃなさろうと思うたです。これはもう本当にそうです、これは私でもそうですから、そうだったと思います。
控えに下がっとる時が一番苦しいです。本当。もうここに座っとる時が一番楽です。けれども、皆がそう言うから、まぁ黙ってお下がりになっておられたようでございますけれども、かえって金光様を、お苦しい思いをさせるのじゃなかろうかと、こりゃ私はそういう心配させて頂いたんです。
いわゆる金光様の場合には、もうここには、もうそれこそ、いわゆる学者が年をとっても本を読むようなものであろうぞいというような境地が開けて、という境地が開けて来た。ここに座っておいでられりゃ、苦しいことはなくなって。思うこともなくなる。ここにおられる間は。欲しい物もなくなってこられる。ただ有り難うて有り難うてという、気持ちが開けてこられる。
ね、私はそういうね、そういう修行が私共の信心修行の内容。ね、いわゆるお道でいう信心の修行観というのは、そういうものだと思う。ね。
一生、家庭の、人間関係の苦しい問題があったり、一生お金に不自由しなければならないようなことがあったり、難儀な病気を何時もしておるというようなですね、事では、そういう事を、何時までも何時までも修行すると、まぁ一生が修行じゃとお仰るから、まぁこれだけは仕方がない、といったようなものではないと。
そういう修行から、脱皮する事が出来るんだと。そして、あるものは、いわば学徳が身に付いていく。学識が広がっていくことを楽しみに、眼鏡をかけて本を読むような学者の境地というか、気持ちと同じように、信心の修行がです、いよいよ、苦のない有り難いもの。苦のない尊いものになってくる。
そういう修行がね、私はお道の信心でいう本当の修行だと。ね、だから、そういう修行をなら教えてくれるもの。それを分からせてくれるものは、やはり人間関係の難儀な、であり、いわゆる世間一般でいう難儀な様相、そのものがです、金光様のご信心は、そこんところを教えてくれる。
だからそこにです、私は難儀な時に本当の意味においての信心修行をね、体得して頂くおかげでなかなければ、おかげ、危ないと。ね。
一番、はっきり分かるのが金銭のことであります。金銭に難儀をしておった時にです、ね、いわば本当の修行という事が分からせられる。ね、ところがその本当の修行ということをです、お道でいう、ここに教祖が仰っておられる、学者が本を読むようなものであるという事がです、修行であり、修行の楽しさというかね、有り難さというか、ね、神徳が身に付いて行くところの、信心修行の楽しさ、有り難さというものがです、身に付いて、私は頂くおかげでなからなければね、危ないと思う。
なるほど、昨日も、おー、お月次祭で、お参りが出来ませんからというて、参って来たご信者があります。もう大変なおかげを受けましてね、もう本当いうたら、あのー仕事の上にも、財産の方はどんどん増えて行く一方のおかげを頂いております。
ところがですね、初めの間は家内がついてきよったけれども、この頃もう家内が全然ついてこんごつなった。かえって、その、そげん参らんでんちゅうごとなってきた。初めの間は子供達もついてきよった。ところが、第一子供達もついてこんごつなった。いよいよ一人だ、一人ぼっちの信心になってしまった。
ところが、お金はどんこんされんごと、段々たまって来た。ね、これでは危ないですよ。ですから、そういうおかげの変形とでも申しましょうかね。片寄ったおかげ。片寄ったおかげではダメです。お互いが様々な、なら金に難儀をしておる時。人間関係でまだ、その辛い思いをする時にです、その辛い思いをする事、その事がです、本当な事を教えてくれる。本当の修行を教えてくれる。いう、修行の楽しさ、有り難さをです、教えてくれる。そのことが身に付いて行くという事です。
ね、だから、今お互いがなら難儀をしております時に、そういう信心修行が身に付いていきよるでしょうか。ね、その難儀と思うておる、その、難儀な修行がです、本当のお道でいう、いや教祖様の仰る、この37節で仰る、この修行じゃと仰るその修行が、身に付いていきよるでしょうか。
もし付いていきよらんでです、なら、金銭のお繰り合わせを頂いて段々もう増える一方というようなおかげを頂いて、金には不自由せんですむごとなったというようなおかげを頂いただけであってはです、もう実に危ない。これは。
その辺を一つ、お互いが、本気で考えさせてもらってですね、学者が年をとっても本を読むようなものであろうぞいと仰るようなです、信心の楽しさ、喜ばしさというものをね、身に付けていくおかげ。
それがもし身に付いてきよるとするならです、ね、もう心配はない。そういうおかげを頂いて来たらです、何の神様が同じようなことで何時までも、何時までも修行させなさるはずがない。
金銭のお繰り合わせを頂くとか、ね、様々な難儀の中からおかげを頂く。ただそれがおかげを頂くというだけでは、頂いただけではです、いわゆる心もとない事になってくる。ね。
家の中でも一つの難儀というものを、家族中の者が難儀と感じる。だから家族中の者がその事を焦点に、よい勢をそろえた信心をする。家族中の者が勢を揃えた信心させて頂くうちにです、本当の意味においての信心修行というものを身に付けて、有り難いという事が分かってくる。
ね、その上に、なら難儀と思うておったおかげが解消するようなおかげを頂いた時です、私は金光様のご信心の本当の意味においての、おかげという事が言えると思うんですよ。ここにね。
何とはなしにこの( ? )これ読みますと、世の中にはもう、いわゆる苦しみからなくなるなんて、もう思われない。ね、もうやっぱ何時も、何か苦しいことがある。難儀なことはあるだと。だからその難儀なことを修行と思うて、といったようなものでは決してないという事。
ね、学者が本を読むようなものであろうぞい、と仰るような修行だという事。金光様のご信心の修行というのは。ん、楽しい修行だという事。有り難い修行だという事。ね、だから、それを分からせてくれるものは、今私共が感じておる、ね、その難儀なことである。
それはそうでしょうが、人間関係でもです、信心のなかった時代は、もうどうして分からん子供じゃろうかと思うておったのがです、どうして分からん子供じゃじゃない、どうして分からん私じゃろうかになってくるのですからね。
難儀じゃなくなってくるんです。ね、そういう信心にならせて頂きゃ、親も子も助かっていく、いわゆるおかげというものが、そこから展開していく。
ですから、そこは卒業する。だから、おかげで人間関係だけはおかげを頂いた。ね、金銭の事だけはおかげを頂いた。おかげで一家中の者がおかげを頂いて、薬一服頂かんですむほどしのおかげを頂いた。ね、そういうおかげが頂けれる道なんだ。
ね、だから、そういうおかげを頂いたとね、言えれる、思える時には、すでに信心修行の本当の、いわゆる学者が本を読むようなものであろうぞい、というような修行が身に付いてきたんだ。
ね、ばってん金光様のご信心な、そういう信心、そういうおかげをいわゆる目指しての信心でな…(テープ切れ)
梶原 佳行